「八戸にはね─1990年に大学進学で来ただけなんです(笑)。もう32年。いまだに居るって・・・何なんでしょうね(笑)」
八戸の老舗写真スタジオ「フォートセンター惣門」に所属するフォトグラファー、山本貴士さんは大阪府吹田市生まれ。「両親が共働きで国鉄職員だった祖父の家に預けられてて。すぐ隣が旧国鉄時代の吹田操車場だったんで毎日そこで遊んでました。」
山本さんが本格的に写真にのめり込んだのは意外にも大学に入学してから。「父親が大阪芸術大学出身で、貧しい家だったけどクリエイティブなものはいっぱいあって、でもカメラは買ってもらえず。大学の広告論のゼミの先生が写真部の顧問もしてて、そこから一気に“カメラ沼”ですね(笑)」
この取材のために用意してくれた山本さんのたくさんの写真を見せてもらうと、ある時期から変化しているのがわかった。90年代、大学の写真部時代から2011年頃までは工場や車などメカニカルな被写体が多く、風景写真でも水平垂直など静的な構図が多かったのが、2012年過ぎから徐々にその傾向が消え、多様な写真スタイルに、と気づく。
「惣門に就職できて波に乗り始めた頃、大阪にいる母が脳梗塞に。介護で八戸と大阪行き来していた自分も心筋梗塞で緊急手術・・・2012年9月ですね。」その後、山本さんも回復し、大阪のお母さんも飛行機で八戸に来られるまでに回復した。
「40歳目前で初めて親孝行(笑)回復した母と叔母が初めて青森に行きたいっていうんでエスコートしたんです。青森屋に泊まって、自分の職場見せて、花が大好きな人なんで種差海岸芝生地をちょっと歩いたりして。自分も大学時代の種差は近過ぎて意識したことすらなく。でも、一命を取り留めた自分と母で一緒に歩いた種差は特別なものに変わりました」と懐かしむ。この親孝行のあと、お母さんは重度の認知症を患い、山本さんすら分からない状態に。
「三沢空港で見送る時、アンタええとこ住んどって安心したわー、って。それ以来、種差が特別になったかな、自分と母にとって」
山本さんは、自己表現を追究する写真家タイプから、依頼してくれる誰かの役に立ちたい、喜んでもらうことを活力に奮闘するフォトグラファーに進化した。
「おかんのDNAが覚醒した?(笑)。」
大阪の施設でリハビリに奮闘するお母さんへ、毎日の仕事の写真を添えた励ましメールが日課になっている山本さん。きっとこの冊子も大阪のお母さんの元へ届くのだろう。